げんき通信 Vol.36 令和7年1月30日発行
視覚障がい者の職業としての鍼(はり)
視覚障がい者の職業として、鍼があることをご存じの方は多いかと思います。視覚に障がいのある、はり師免許保持者は2022年現在で14,792人います。
今回は視覚障がい者と鍼との関わりを知る上で重要な人物、杉山和一(すぎやま わいち)についてご紹介します。
杉山和一の生い立ち
杉山和一は1610年、伊勢国安濃津(現在の三重県
津)で武士の長男として生まれました。幼少期に感染症に罹患し失明してしまいます。視覚障がい者の職業は琵琶法師か按摩という時代で、杉山和一も琵琶法師
としての修行を始めましたが、自身と同じで目が見えなく、江戸で鍼医として活躍している山瀬琢一のことを知り、鍼医を志すようになります。しかし、視覚障
がい者の鍼医はその当時日本で3人しかいなく、鍼医となるのは極めて困難でした。
17歳で山瀬に弟子入りした杉山和一は、人の体を理解するため、まず3年間は按摩、その後、鍼の修行を行いましたが、最終的には破門されてしまいまし
た。破門に至る経緯は、不器用で鍼が上達しなかったという説や、当時主流であった撚鍼法(ねんしんほう)という鍼の刺入方法が習得できなかったという説な
ど、諸説あります。
※撚鍼法:太い鍼を用い、その先端を指でひねって鍼を体内に刺入する方法。刺激が強く医療過誤が多かったとされる。
管鍼法(かんしんほう)の創案
鍼医の道を諦めることができなかった杉山和一は、江ノ島弁才天にて鍼術上達を願い21日間の断食祈願を行いました。満願の日、大きな石(福石)につまずき転んでしまいます。そこで筒状になった葉に松葉が包まれていたものを発見したことにより「管鍼法」の着想を得ます。
その後、京(京都)に渡り、山瀬の師でもあった入江良明の息子、豊明に入門し入江流鍼術を学びます。当時、京にはいくつもの鍼術の流派があり、鍼道具を作る職人も多くいました。工夫を重ね金属製の鍼管を開発し、「管鍼法」という独自の刺鍼法を創案しました。
管鍼法は鍼よりも少し短い鍼管に鍼を挿入し、鍼管からはみ出た部分を指で弾いて、鍼の先端を皮膚に入れ、鍼管を外し、鍼を体内に刺入する方法です。この管鍼法により、現在用いられているような細い鍼を安全に刺入できるようになったのです。
また、鍼術を視覚障がい者の職業としたいという思いがあった杉山和一は、教科書の編纂にも取り組みました。
江戸幕府との関わりと視覚障がい者への教育
その後、杉山和一は江戸に移り開業します。また、私塾を開き、後進の指導にもあたりました。
61歳で盲官最高位である検校(けんぎょう)となり、徳川幕府五代将軍綱吉の侍医となりました。73歳のとき、私塾は幕府公認の『杉山流鍼治導引稽古
所』となりました。これは視覚障がい者に集団教育を行った世界初の学校とされています。この稽古所によって教育水準が向上し、鍼術の安全性が高まり、視覚
障がい者の職業として確立していったのです。
83歳で全国の視覚障がい者を総督する総検校となり、84歳のとき、綱吉から本所一ツ目(現在の東京都墨田区千歳)に領地を与えられ、「本所一ツ目弁天社(現在の江島杉山神社)」を創建しました。
管鍼法の創案のみならず、鍼術を視覚障がい者の職業として確立させたなど、非常に大きい功績を遺した杉山和一は85歳でその生涯を終えましたが、その後も杉山流は全国に広がり、多くの鍼治学問所が開設されていきました。
管鍼法は視覚障がい者にとって刺鍼が安全に行える刺鍼法ですが、現在、日本だけではなく世界の多くのはり師に用いられています。
明治時代に入り制度が変わることもありましたが、杉山和一の遺志はこれからも受け継がれ、鍼は視覚障がい者の職業の一つとして、今後も続いていくことでしょう。
お問い合わせは・・・
北海道札幌視覚支援学校附属理療研修センター
TEL(011)533 - 3253
メールアドレス ahaki@popmail.hokkaido-c.ed.jp
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