日中の神話における陰陽論の比較に関する一考察  吉田 勝豊


Ⅰ はじめに
 東洋医学における最も古い必読書といえば、『黄帝内経』であり、その根幹は陰陽五行論である。
 陰陽論も、五行論も、中国においてそれぞれ発展し、日本に伝わったものであるが、その意味する所は、中国と日本では必ずしも同一ではないように思われ る。
 日本と中国、それぞれの国において、陰陽論が国の成り立ちや人間観、政治制度などに、どのように影響したのかについて、日本と中国の神話から考えてみた い。


Ⅱ 中国神話における陰陽
 中国における最も古い神は、「書経」によれば盤古である。以下にその部分を引用する。
 宇宙の最初、そこには天地も、日月もなく、それは暗黒の混沌たる一つの塊、いわば巨大な卵のようなものであった。
 やがてその中に生き物が一つ芽生え、1万8千年かかって成長を遂げ、盤古という神になった。彼は暗黒の中にずっと蹲って生きていた。
 ある日、凄まじい音がして突然卵が割れ、内部の軽くて滑らかな成分はふわふわと雲を成し、上昇して天空となり、重く濁った成分は下に沈み、固まって大地 となった。そこで自然に盤古は突っ立って、頭と両手で天を支えて、両足で大地を踏みしめる形になった。
 さて、宇宙は速やかに膨張し、毎日天は1帖ずつ高くなり、地は1帖ずつ厚くなり、また盤古の身も1帖ずつ大きくなり、膨張が1万8千年の間続いた。
 いまや高い青空と広い大地の中間に、途方もない巨人たる盤古が天地の柱として突っ立っていた。盤古は暗く静まりかえった広大な宇宙のただ中に、まさしく 孤独のままで辛抱強く天空を支え、長い時間耐えたが、やがて疲れ果て、ついにおさりと大地に倒れ横たわって死んだ。既に大地は固まっていて、この巨人の柱 が抜けても崩れなかった。
 盤古が死ぬと、その今際の声は雷となり、息は風となり、左目は太陽に、右目は月に、手足は山々に、血潮は河になるなど、体の各部が全てそれぞれ変化し て、天地間の万物になった。

 以上の記述から以下のことがわかる。
1 万物の成り立ちに関与したのは、単独の男神のみであり、男女(陰陽)の関与はみられない。
2 陰陽に関する記述を要約すると、次のようになる。
(A)滑らかな(陽)部分は上昇(陽)し、濁った(陰)成分は下(陰)に沈み
(B)左目(陽)は太陽(陽)に、右目(陰)は月(陰)に
 そして盤古の後に来るのが、伏羲 、 神農 、 燧人、もしくは女媧の3人の神と、黄帝、顓頊、帝嚳、堯、舜の5人の聖人による三皇五帝時代である 。 ここでは神とされている三皇について述べる。

 伏羲は上半身が人、下半身が蛇で、漁業、家畜、鉄器の神とされる。
 神農は頭部が牛、体が人で、医と農耕の神とされる。
 燧人は火の神とされる。
 女媧は上半身が人、下半身が蛇の女神で、人はこの女神により、退屈しのぎに泥をこねて作られたとされる。このとき女媧は、最初1体1体丁寧に作っていた が、次第に飽きてきて、途中からは縄を使って泥を跳ね上げ、その飛沫から適当に作ったため、人は優秀なものと、凡庸なものが入り交じるようになったとされ る。

 以上の記述から次のことが分かる。
3 蛇身や牛頭など、神と人の形態は異なっている。
4 人は「泥」という無機物的なものから作られており、生命(男女、陰陽)の関与はみられない。
5 女媧ではなく燧人説を採った場合、神は全て男神である。


Ⅲ 日本神話における陰陽
 日本における世界の成り立ちについて述べた最も古い書物としては、『古事記』や『日本書紀』がある。ここでは『古事記』から考えてみることとし、長くな るが、以下に引用する。

 宇宙の始め、天も土も、いまだ混沌としていたときに、高天原と呼ばれる天のいと高い所に、三柱の神が次々と現れた。初めに、天の中央にあって宇宙を統一 する天之御中主神。次に宇宙の生成を司る高御産巣日神、同じく神産巣日神。これらの神々は、みな配偶をもたぬ単独の神で、姿をみせることはなかった。
 さて初めに宇宙に現れた三柱の天津神は、伊邪那岐命と伊邪那美命の二柱の神に、次のような言葉を与えた。
 「地上の有様をみるに、まだ油のように漂っているばかりである。お前達はかの国を、人の住めるように作り上げよ。」
 (中略)
 二柱の神は天の浮橋から、新しくできたこの島へと降り、ほどよい所に、太い柱と広い御殿を建てた。
 (中略)
 「私の体は、これでよいと思うほどにできていますが、ただ一所だけ欠けて充分でない所がございます。」
 そう女神は答えた。伊邪那岐命がそれを聞いていうには
 「私の体も、これでよいと思うほどにできているが、ただ一所余分と思われる所がある。」
 (中略)
 「それでは私とお前とで、この中央の柱の周りを両方から回り、行き会った所で、夫婦のかためをしようではないか。」
 このように約束を定めて、更に男神がいうには
 「お前は柱の右側から回りなさい。私は左側から回ろう。」
 こうして男神と女神は夫婦の契りを結び、伊邪那美は現在の日本列島を産み、更に風や土、木、水など、あらゆる万物を産み、最後に火を産むが、火を産んだ ときの火傷が元で死んでしまう。伊邪那岐は悲嘆にくれ、伊邪那美に一目会いたいと黄泉国へと向かい、黄泉国と現世との間を閉ざす扉越しに伊邪那美と言葉をかわす。その部 分を以下に引用する。
 「愛しいわが妻よ。私がお前と一緒に作った国は、ただ形を作ったというばかりで、まだ本当に完成しているわけではない。私にはまだお前の助けが必要なの だ。どうか私と一緒に、もう一度戻ってきてはくれないだろうか。」
 こう呼びかけるのを聞いて、伊邪那美は次のように答えた。
 「神々に相談して、帰ってよいかどうか伺ってみましょう。ただお断りしておきますけれど 、その間は私の姿をごらんにならないでくださいまし。」
 そういって御殿の中に戻ってしまった。伊邪那岐は扉の所に佇んで、いわれた通りに待っていたが、時が刻々に過ぎてゆくのに、愛する女神の姿は再び現れな い。ついに待ちかねて、禁を破って中に入る気になった。辺りは暗黒である。
 伊邪那岐は角髪(髪を左右に分け、耳の辺りで輪に束ねた男子の髪型)に結った髪の、左側に垂れた部分に刺していた爪櫛(目の細かい櫛)を手にとった。
 櫛の歯の一番端にある大きな歯を一本折り、そこに火をつけて、御殿の中へと進んだ。乏しい光に照らされて、やがて伊邪那美の姿が目に映ったが、それはも はや、かつて知っていた妻の姿とは全く違っていた。
 (中略)
 伊邪那岐は恐怖で凍り付いたようになり、一目散に逃げ出した。
 伊邪那美は黄泉国のみにくい女神達に、その跡を追いかけさせた。伊邪那岐は一心に
逃れ走ったが、次第に危なくなった。
 (中略)
 伊邪那岐は、今度は角髪に結った髪の右側に刺した櫛をとり、その歯を折り取っては後方に投げ捨てた。地に落ちた櫛の歯は筍となって生え、黄泉国の女神達 が端からそれを引き抜いて食べ始めた間に、更に遠くへと逃れていった。
 その後なんとか危急を脱して地上へ戻った伊邪那岐は、黄泉国の汚れを落とすために、現在の宮崎県の海に注ぐ河口の辺りで、禊を行う。以下にその部分を引 用する。

 伊邪那岐が左の目を洗ったときに生まれた神の名は天照大御神。次に右の目を洗ったときに生まれた神の名は月読命。
 (中略)
 伊邪那岐は玉飾りを天照大御神に手渡しながら「お前は私に代わって高天原を治めよ。 」
 こう命じ、仕事を任せた印に、その玉飾りを賜った。次に月読命には
 「お前は私に代わって夜之食国を治めよ。」
 こう命じ仕事を任せた 。

 以上の記述から次のことが分かる。
1 万物の成り立ちには男女(陰陽)の神が関与している。
2 陰陽に関する記述を要約すると次のようになる。
(A) 私(女、陰)の体には充分でない(虚、陰)所がある… 私(男、陽)の体には余分(実 、陽)な所がある。
(B) お前(女、陰)は右側(陰)から、私(男、陽)は左側(陽)から回ろう。
(C) 髪の左側(陽)に刺した櫛をとり、櫛の歯を1本折り取ると、そこに火(陽)をつけた 。
(D) 髪の右側(陰)に刺した櫛をとり、その歯を折り取っては、それを後方に投げ捨てた。地(陰)に落ちた櫛の歯は筍となって生えた。
(E) 左(陽)の目を洗ったときに生まれた神の名は天照(陽)大御神。次に右(陰)の目を洗ったときに生まれた神の名は月読(陰)命。
3 上記(A)の生殖器に関する記述から 、 神と人の形態は同じである。
4 人の成り立ちには、生命(男女、陰陽)が関与している。

Ⅳ 日中の神話における陰陽の比較と考察
 日中の神話における世界観と陰陽の関係を比べてみると
1 万物の成り立ちについて、中国では一人の男神によるが、日本では男神と女神の和合によっている。
2 人の成り立ちについて、中国では一人の女神により泥から作られているが、日本では男神と女神の和合により、女神から生まれている。
3 中国における神は巨人(盤古の身長は約11826km)、牛頭や蛇身など、人とかけ離れた形態であるが、日本の神は人と同じ形態である。
4 中国神話より日本神話の方が、陰陽に関する記述が多くみられる。

 中国神話に対して日本神話における神々は、より人間的であり、陰陽(男女)を基本として万物の成り立ちをとらえている。
 また万物の成り立ちは伊邪那岐と伊邪那美の共同作業により行われ、その立場は対等なものである。このことは、黄泉国で伊邪那岐が伊邪那美にいった、前述 の「「愛しいわが妻よ(中略)どうか私と一緒に、もう一度戻ってきてはくれないだろうか」という言葉からも分かる。
 また伊邪那岐が女神に玉飾りを渡し、神々の発祥の地ともいうべき高天原において昼を治めさせ、男神に夜を治めさせたことからも、男女の間に優劣を思わせ る差別的な考えのなかったことが分かる。
 このように『古事記』にみられる陰陽(男女)のとらえ方は、後の政治体制に少なからぬ影響を与えたと思われる。
 そもそも中国の書物において、最初に登場する日本人の人名は、『三国志魏書烏丸鮮卑東夷伝倭人条』に記述されている、邪馬台国の女王卑弥呼である。また 大和朝廷から始まる天皇制において 始まる天皇制において、、8人8人1010代の女帝が存在する代の女帝が存在する。それは以下の通りであるそれは以下の通りである。

 33代 推古 592~628(在位35年5ヶ月)
 35代 皇極 642~645(在位3年5ヶ月)
 37代 斉明(皇極の再即位) 655~661(在位6年6ヶ月)
 41代 持続 690~697(在位7年6ヶ月)
 43代 元明 707~715(在位8年2ヶ月)
 44代 元正 715~724(在位8年5ヶ月)
 46代 孝謙 749~758(在位9年1ヶ月)
 48代 称徳(孝謙の再即位) 764~770(在位5年9ヶ月)
 109代 明正 1629~1643(在位13年11ヶ月)
 117代 後桜町 1762~1770(在位8年4ヶ月)

 上記の女帝それぞれの業績について、ここで述べることはしないが、単なる傀儡や場繋ぎ的な存在であったわけではない。また即位こそ実現しなかったが、平 安、鎌倉、江戸 時代において、上記以外の女帝候補が、少なからず存在している。
 更に、奈良時代の基本文献とされる『続日本紀』の天平宝字2(758)年8月25日の条 には、次のような記述がある。
 「君、十帝を経て年ほとほと百」
 つまり、一人の天皇の在位が10年前後であるという意味で、このことからも女帝の在位期間が、男帝と同様であることが分かる。
 これに対し中国では、夏から清が滅びるまでの約4千年に及ぶ長い皇帝政治の歴史 の中で、則天武后として知られる武則天のわずか一例があるのみである。しかしながら 武則天においても、その即位690年は、皇后として力を蓄え皇帝が崩御した後、武周と いう新しい国の建国に際してのものであった。唐において即位することは、ついに叶わ ず、また武則天を排除しようとする動きは、唐、武周を通じて絶えることがなかった。
 日本のように万世一系の天皇制における即位の例とは異なるものである。また武則 天の登場は、日本における最初の女帝、推古より100年も後のことである。
 このように中国において、純粋な意味での女帝が存在しえなかったことは、世界の成 り立ちが盤古という男神(陽)のみから始まっていることに象徴される、陰陽観が影響 しているのではないだろうか。
 また、このこ とは、中国の政治体制が、ただ一人の皇帝による絶対独裁体制の歴史を 刻んでいく、一因となっているのかもしれない。

Ⅴ 終わりに
 日本であれ、中国であれ、神話に書かれている事象の全てが真実というわけではない。 しかしながら神話に書かれていることは、執筆以前の歴史や社会、人の有りようを反映 し、そのことが執筆以後の社会にも少なからぬ影響を及ぼすものである。
 であるならば、日本における神話は中国に比べ、陰陽論の本来の姿を質的、量的に、純 粋かつ多量に反映しているのではないだろうか。
 また今回は内容の簡略化のために省略したが、日本神話において、木、火、土、金、水はいうに及ばず、水の流れが土を運び大地を作る様子や、穀物が育ち実を結ぶ様子など、世界を構成する全ての要素や、ありとあらゆる自然現象は擬人化され、神々の名前がつ けられている。このことは東洋医学の根本思想である「天人合一説」をより強く反映し ていると思われ、そのことは意識的、無意識的に日本の文化や心の有りようの根本をな しているのではないだろうか。

《 引用 ・ 参考文献 》
1) 根本幸夫:陰陽五行説 その発生と展開 薬業時報社 1991
2) 福永武彦:現代語訳 古事記 河出書房 2003
3) 博学おもしろクラブ:時間を忘れるほどおもしろい世界の神話 三笠書房
4)  小石房子:日本の女帝 平凡社 2009



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