古代中国と日本における死生観の相違に対する一考察  吉田 勝豊


Ⅰ 赤の力
 司馬遷の『史記 始皇本紀』には、秦の始皇帝が徐福に、蓬莱国に行って仙人を連れて来るか、仙薬、つまり不老不死の薬を持って来るように命じたことが記されている。
 当然ながら、そのような薬はないため、なんの成果もないまま帰国して、始皇帝に処罰されることを恐れた家来達は行方をくらましたりした。日本を訪れたと される徐福も、そのまま日本に留まったという伝説がある。
 始皇帝に不老不死の薬を作るように命じられた医師達は、硫化水銀の化合物を始皇帝に献じた。これは硫化水銀の「赤」が、生命力の象徴である「血」を連想 させるからである。
 当然ながら硫化水銀は人体にとって有毒であるが、その鮮やかな赤ゆえに、不老不死の薬と信じられていた。始皇帝は不老不死の薬(硫化水銀)を飲み続け、 中国を統一して僅か 11 年後、49 歳の若さで死んでいる。
 このような始皇帝の不老不死へのこだわりが煉丹術、つまり服用すれば不老不死の仙人になれるという霊薬(仙薬)の研究に繋がっていくのである。そして硫 化水銀の赤い丹沙はその後、長い間煉丹術における丹薬の重要な成分であり続ける。
 また、『史記 封禅書』には、李少訓が長生きを願う漢の武帝に「祠竈(しそう)法」という、硫化水銀を用いた不老不死の法を献じたと記されている。
 更に唐の皇帝が何人も、丹薬の害によって命を落としたことが、『旧唐書』や『新唐書』に記されている。
 このように古代中国の権力者達が、いかに神仙思想や煉丹術に象徴される不老不死、つまり現世に執着していたかが分かる。

 一方、古代日本においても赤は生命力の象徴とされ、佐賀の吉野ヶ里遺跡の墳墓から発掘された、死者を埋葬する甕棺(かめかん)の内側は、死者の復活を願 い赤く塗られている。この赤い染料も、硫化水銀を主成分とする水銀朱である。
 また、岡山県倉敷市楯築遺跡の墳丘墓からも、32kg の水銀朱が発見されている。
 しかしながら古代弥生人にみられるこのような思想が、その後の日本人に不老不死崇拝として受け継がれることはなかった。


Ⅱ 月への思い
 古代中国人と日本人が、月に対して抱いた思いは共通している。
 月は洋の東西を問わず、古代人にとって恐るべき天変地異であった月食を除 き、決して消えることなく夜の闇を照らし続けていた。現代のように照明のない 時代、夜はまさに漆黒の闇であり、古代人にとって闇への恐怖から救ってくれる 光源としての月の存在は、それだけでも畏敬に値するものであったに違いない。
 更に月は約 30 日周期で、新月から上弦の月、満月を経て、下弦の月、そして 再び新月へと満ち欠けを繰り返し、その無限の営みは生命の不滅性と再生を思 わせる。
 そのため月は不老不死の象徴とされた。しかしながら不老不死を含め、その死 生観は中国と日本では必ずしも同じではない。
 ここでは中国と日本における月にまつわる話から、両国人の不老不死、そして 死生観について考えてみたい。

 古代中国人の不老不死に対する思いが伝わってくる、月にまつわる話は『嫦娥 (じょうが)奔月』であり、中国の中秋節の故事として知られている。
 『淮南子覧冥訓(えなんじらんめいくん)』には「嫦娥が不老不死の薬を盗み 月に逃げた」という記述があり、同じく『淮南子精神訓』には「太陽には烏が住 み、月には蟾蜍(せんじょ=ヒキガエル)が住んでいる」と記されている。
 この話は様々な説が伝承されているが、中秋節にちなんだものの概略を以下 に記す。

 大昔、十の太陽が一度に空に現れ、大地は荒れ果て、海は干上がり人々は暮ら しをたてることすらできなくなった。
 この頃、后羿(こうげい)という若者がおり、その力は万金の宝の弓を引くこ とができ、どのように恐ろしい獣でも射ることができた。
 彼は人々の苦しむ様子を見て、宝の弓と神の矢をもって九つの太陽を射落と した。最後の太陽は許しを乞い、后羿は太陽に人々のために決まった時間に昇り、 沈んでいくことを約束させた。
 后羿の名前は天下に轟き、人々は彼を敬い、その後彼は嫦娥という美しい娘を 嫁にとった。
 ある日、狩りの途中で后羿は年老いた道士に出会い、一包みの不老不死の薬を もらった。この薬を飲めば不老長寿を得ることができ、天に昇り仙人になること ができる。
 しかし后羿は妻や周りの人々と離れて、一人天に赴こうとは思わなかった。家 に帰ると、不老不死の薬を嫦娥に渡しつづらの中にしまわせた。
 この頃、后羿のもとには彼を慕って多くの人達が集まっていた。その中に蓬蒙 (ほうもう)という者がおり、不老不死の薬を奪い、仙人になろうと考えた。
 その年の8月 15 日、后羿は弟子達を連れて狩りに出かけていた。夕暮れ前に 蓬蒙はひそかに戻り、不老不死の薬を渡すように嫦娥に迫った。嫦娥はやむにや まれず薬を全部飲んでしまい、そのため天に昇ってしまった。
 后羿が家に戻ったとき既に嫦娥の姿はなく、侍女の話で后羿は事の次第を知 った。
 嫦娥のことを思い、彼は庭に嫦娥の好きだった果物などを置き彼女を祀った。 それが毎年続き世間にも伝わり、8月 15 日が中秋であったことから中秋節とし てお祀りするようになった。

 嫦娥が薬を飲む件には諸説がある。
 一つは、嫦娥が身勝手な女で、天に昇りたくて夫の目を盗んで薬を飲んでしま ったという説。これによって嫦娥は罰せられ、月の宮殿で一人寂しく暮らし、蟾 蜍にされてしまったという。
 もう一つは、夫の留守に悪者が不老不死の薬を盗もうとしたので、仕方なく自 分が飲んでしまったという説。
 更にもう一つは、后羿は太陽を射落とした功績で高い地位を得るが、そのこと ですっかり舞い上がり暴虐な王になってしまう。こんな男が不老不死になった ら万民が苦しむというので、嫦娥が自分で薬を飲んだという説である。
 いずれの説にしても、嫦娥なり、蓬蒙なり、悪者なりの行動を通して、不老不 死に対する信仰ともいうべき執着の強さが感じられる。
 また重要なことは、いずれの説においても、嫦娥は実際に不老不死の薬を飲ん でいるということである。
 更に、嫦娥が蟾蜍に変えられたことは、不老不死の薬を得ることは罪であり、 そこには権力者のみが不老不死の薬を得る資格があるという思いが垣間見られ る。

 次に日本人の不老不死や死生観について、同じく月にまつわる『竹取物語』か ら述べてみたい。
 竹取物語については誰もが知っている話なので、あらすじを述べることはせ ず、不老不死に関する部分のみ記述する。

 かぐや姫は不老不死の象徴である月に帰るとき、心通わせた御門に、別れの歌 一首と一緒に不老不死の薬を送る。
 しかし御門はその薬を飲もうとはせず、家来に命じて、現在の富士山の頂上に 埋めさせる。

 上記のように、竹取物語においては、不老不死の薬を誰一人飲むことはなかっ た、というより、飲もうという気さえ起こさなかった。
 中国において、歴代の皇帝が莫大な金銀と時間を費やして追い求めた不老不 死の薬も、日本においては同じ権力者である御門にとって、かぐや姫への愛に比 べれば取るに足りないものだった。
 更に、権力やかぐや姫と無関係で、富士山へ向かう間に持ち逃げしたり、飲ん でしまう機会がいくらでもあったはずの家来にとってさえ、それは主命に背く ほどには魅力のないものだった。
 まして『嫦娥奔月』にみられるように、盗んだり、独占したり、他人を脅した りしてまで手に入れるほどのものではなかった。

不老不死の薬を飲んだ罰として蟾蜍にされた嫦娥だが、いつしか月には蟾蜍で はなく、兎が住むようになった。これは「蜍」と「兎」の読み方が似ているため に、誤って伝わったものとされている。
 この兎だが、中国では不老不死の薬を作っているが、日本では餅をついている。 この兎の話からも、中国と日本の「月」や「不老不死」に対する感受性の違いが 分かる。
 日本人は月に不老不死の象徴性を感じながら、それでも不老不死という現実 的な要素より、竹取物語に象徴されるように、月の光を「愛」や「美」といった 情緒的なものとして感じる精神性を当然のことのように持ち合わせていたのだ と思う。
 日本人なら知らぬ者のないこの物語は、成立年も、作者も不明である。しかし ながら無名の一市民が書いたからこそ、そこには日本人のごく自然なありのま まの情緒が映し出され、であればこそ現代に至るまで愛され続けているのでは ないだろうか。

Ⅲ おわりに
 当然ながら、明治維新による文明開化が起きるまでの長い間、日本の医療は、 あんま、鍼、灸、漢方を中心とした東洋医学が、人々の健康と生命を支えてきた。 また、政治や文化、風俗など様々な場面において、五行説は人々の生活の中に溶 け込んでいた。
 しかしながら日本の医術は、例えば西洋の医師や錬金術師達が、金の永続的な 輝きと生命の不滅性を結びつけて、不老不死の妙薬として金剤を用いるような ことはなかった。
 また、同じ東洋医学であっても、中国のように神仙思想の影響を受けたり、不 老不死を求める方向へ向かうことはなかった。
 元々、東洋医学は、人体の自然治癒力という内的作用を高めることを根本とし ており、西洋医学のように外的作用によって病気と闘い、克服するという思想と は異なっている。
 そのため、自らの生命力が力尽きたときには、潔く死を受け入れるー少なくと 23 も日本においては、そのような思いが自然と培われていったように思う。
 歴代の天皇や征夷大将軍といった権力者が、不老不死の薬に執着したという 例はなく、それは権力者に留まらず、庶民においても同様である。現世における 不老不死よりも、むしろ、来世における幸せを願う風が強い。
 これは仏教伝来以来の仏像信仰や、極楽浄土を願う浄土宗・浄土真宗などの流 行、そして武士道にみられる「不名誉な生」よりも「名誉ある死」を望む精神な どにもみてとれる。
 このような精神風土を背景に、日本の医術はいたずらに「生」を求めるもので はなく、「安らかな死」を迎えるための補助的役割を果たすようになる。そして 生を意味あるものとして完結させるという、日本人が最も自然に受け入れるこ とができる「医」と「生」の関係が形作られていくのである。
 そうでなければ、明治維新後の文明開化による西洋崇拝の大きな流れの中で、 西洋医学の台頭と共に、東洋医学は消滅してしまったに違いない。
 それが今日に至るまで、脈々と日本人の生活の中に根ざし、生き続けてきたの は、今まで述べてきたような日本人特有の精神の有りようのゆえなのではない だろうか。
 延命治療の是非やターミナルケアの重要性が問われるようになって久しいが、 その素地は元々の日本人の心に備わっていたのだと思う。
 日本人なら誰もが知っている聖徳太子の言葉に、「世間虚仮(こけ)、唯仏是真」 というのがある。これは「この世は仮の世、真の国は仏の国」という意味である。
 ここで仏について述べるつもりはないが、この言葉は宗教の有無に関わりな く、日本人の誰もが持ち合わせている心の有りようの一端を表しているように 思える。
 そして、その心こそが、日本人独特の死生観と医の在り方を育んだのではない だろうか。

《 引用 ・ 参考文献 》
1) 小竹文夫、現代語訳 史記、筑摩書房、1995
2) 平岡禎吉、淮南子に現れた気の研究、理想社、1961
3) 松井秀明、エピソードで学ぶ日本の歴史、地歴社、2009
4) 三橋健、かぐや姫の罪、中経出版 2013



症例報告集へ戻る
ホームへ戻る