慢性的な下痢に対する灸治療の効果について  古川 美奈


Ⅰ はじめに
 下痢の多くは一過性である。暴飲暴食、消化不良、腹部の冷えなどで大腸の水分を吸収する能力が低下することや、ストレスで自律神経のバランスが崩れることが原因となる。注意が必要なものとしては、食中毒、クローン病、潰瘍性大腸炎、大腸癌、過敏性腸症候群などが原因で起こる下痢がある。中でも、日本で便通異常のため受診する患者の20~30%を占めるのが過敏性腸症候群である。過敏性腸症候群は命に関わる疾患ではないが、突然起こる腹痛や下痢のために、QOLが低下する。
 今回は、慢性的な腹痛を伴う下痢を主訴とする過敏性腸症候群が疑われる症例について報告する。


Ⅱ 過敏性腸症候群とは
 過敏性腸症候群は、大腸の運動、知覚、分泌機能の異常により起こる疾患である。検査で炎症や癌などの器質的異常は見つからないが、腹痛、下痢、便秘などの症状が慢性的に繰り返される。先進国に多く、日本における有病率は約15%である。20歳から30歳代の人に多くみられるが、最近では中高年層にも増加している。
 症状別に、下痢型、便秘型、混合(交替)型、分類不能型に分けられる。発症には、遺伝的要素に加えてストレスが深く関与している。脳と腸には「脳腸相関」(後述)と呼ばれる関係があり、脳がストレスを感じると、その刺激が自律神経を介して腸の運動に影響を与える。
 下痢型では、腹痛を伴った急激な便意が起こり、水様便が排泄される。若い男性に比較的多い。便秘型では、排便回数が週3回未満に減少し、兎糞状の便が出たり、排便の際に強くいきむようになったりする。また、残便感を伴うこともある。混合型は、下痢と便秘を繰り返すもので、下痢症状が続き便を出しきったあと便秘になることが多い。どのタイプでも、腹痛、腹鳴、腹部膨満感、おならなどの症状を伴うことが多い。また、頭痛や精神症状を伴う場合もある。
 過敏性腸症候群の診断には、国際的診断基準であるRomeⅢ診断基準を用いる。確定診断するためには、大腸癌や炎症性腸疾患の有無を調べる。これらの疾患が疑われるような発熱、体重減少、下血などの危険徴候がみられる場合や50歳以上の患者、大腸癌の既往歴・家族歴がある患者に対しては、大腸内視鏡検査や大腸造影剤検査を行う。症状に応じて、腹部超音波検査、腹部CT検査などを追加する場合がある。過敏性腸症候群と混同される可能性がある疾患としては、乳糖不耐症、薬剤性の下痢、寄生虫症などがある。また、甲状腺の機能異常などが症状発現の原因となることもあるため、危険徴候がない場合でも血液検査、尿・便検査を行う。

 ※過敏性腸症候群の診断基準<RomeⅢ診断基準>
腹痛あるいは腹部不快感が、最近3ヵ月の中の1ヵ月につき、少なくとも3日以上を占め下記の2項目以上の特徴を示す。
  1.排便によって改善する
  2.排便頻度の変化で始まる
  3.便形状(外観)の変化で始まる
少なくとも診断6ヵ月以上前に症状が出現し、最近3ヵ月間は基準を満たす必要がある。 腹部不快感とは、腹痛とはいえない不愉快な感覚を指す。病態生理研究や臨床研究では、腹痛あるいは腹部不快感が1週間につき少なくとも2日以上を占めるものが対象として望ましい。


Ⅲ 脳腸相関について
 ストレスを感じると、視床下部の傍室核(PVN)において副腎皮質刺激ホルモン放出因子(CRF)が放出される。このCRFは、下垂体前葉からの副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)分泌を活性化する。ACTHは副腎皮質からの糖質コルチコイド分泌を促し、ストレスに適応するためのさまざまな生体反応を起こす。このような状態が長く続くと、生体に悪影響が出ると考えられている。
 ストレスにより誘発されたCRFはPVNや延髄の孤束核・迷走神経背側核(DVC)にあるCRF type 2受容体を介して胃・十二指腸の運動を抑制すると考えられている。また、CRFはCRF type 1受容体を介して結腸の運動を促すと考えられている。これに関与するのはPVNとDVCにある内臓運動性核である。この副交感神経の興奮が消化管の筋層間神経叢を刺激し、その結果、平滑筋の収縮が起こると考えられている。これが「脳腸相関」である。
 「脳腸相関」には脳から腸だけでなく、腸から脳への信号伝達もある。消化管内腔の粘膜細胞に刺激が加わると、この刺激は迷走神経下神経節を介して視床や大脳皮質に伝わると考えられている。これは、内臓知覚と呼ばれている。この内臓知覚は消化管壁内に存在する内在性知覚ニューロンからの信号も関係していると考えられている。最近では、内臓知覚の過敏が過敏性腸症候群の病態の原因であると考えられている。また、内臓知覚に関与しているとされる内在性知覚ニューロンからの情報伝達にはセロトニン受容体が関与していると考えられている。ストレスにより分泌されるCRFが誘発する下部消化管運動亢進にもセロトニンが関係しているとされている。


Ⅳ 症例
 1 患者のプロフィール
 (1)基本情報
  30歳代、男性、公務員、身長:170cm、体重:70kg

 (2)主訴
  腹痛を伴う下痢

 (3)現症
小学校2年生頃から、特にきっかけはないが頻繁に腹痛・下痢が出現するようになった。高校2年生の時に一時的に症状が悪化したため、大腸内視鏡検査を受けたが特に異常は見つからなかった。その後も症状は軽快せず、5年前に再び内視鏡検査を受けても原因は特定されなかった。医師からは精神的な影響からくるものだろうと言われている。現在も週に3回程下痢をしている(便通はほぼ毎日ある)。腹痛があるときに市販の止瀉薬を使用することがある。

 (4)自覚症状
  腹痛を伴う下痢。精神的ストレス、冷え、乳製品で増悪する。

 (5)他覚症状
  圧痛・硬結:中脘、足三里
  下腹部の冷感

 (6)既往歴
  28歳:脂肪肝

 2 病態の考察
 この患者は、慢性的な腹痛と下痢が主訴であるが、検査では異常所見はなかった。また、増悪因子に精神的ストレスを挙げている。したがって本症例は過敏性腸症候群の可能性が高いと考えられる。増悪因子に乳製品も含まれていることから乳糖不耐症の可能性も否定できないが、医師からも「おそらく過敏性腸症候群でしょう。」と言われているとのことだった。

 3 治療法・経過
  平成30年11月1日から12月20日まで、週1回程度、計9回治療を行った。
 (1)1回目:平成30年11月1日
胃腸機能の改善を目的に、中脘(胃経の募穴、八会穴の腑会)、天枢(大腸経の募穴)、関元(小腸経の募穴)、足三里(胃経の合穴)にせんねん灸の奇跡レギュラー(セネファ株式会社)を各1壮施灸した。

 (2)2回目:平成30年11月7日
  11月3日に下痢をした。中脘に硬結あり。下腹部の冷感はなし。1回目と同様の治療を行った。

 (3)3回目:平成30年11月9日
  11月7日と8日に軽い腹痛を伴う下痢をした。前回と同様の治療を行った。

 (4)4回目:平成30年11月16日
11月10日に強い痛みを伴う下痢をした。また、12日にも下痢をした。上脘と上巨虚に圧痛と硬結がみられたため、上脘、天枢、関元、上巨虚にせんねん灸の奇跡レギュラーを各1壮施灸した。

 (5)5回目:平成30年11月22日
前回治療後から今日まで下痢をしなかった。中脘と足三里に圧痛・硬結がみられた。1回目と同様の治療を行った。

 (6)7回目:平成30年12月7日
  ここ数日は下痢をしていない。1回目と同様の治療を行った。

 (7)9回目:平成30年12月20日
前日に下痢をしたが、それまでは2週間ほど下痢をしていない。普段はほぼ毎日便通があるが、今日はまだ出ていないとのこと。水分と上巨虚に圧痛・硬結がみられたため、水分、天枢、関元、上巨虚にせんねん灸の奇跡レギュラーを各1壮施灸した。


Ⅴ 考察・今後の課題
 患者からの報告によると、下痢をしたのは、11月7日、8日、10日、12日、22日、23日、29日、12月3日、19日、20日であった。治療を開始した11月上旬は、週に3回程下痢をしたが、11月中旬からは週に1~2回程に減っている。患者は、お腹と足の保温をするよう気をつけてはいたが、食生活は治療をはじめる前と変わりなく、薬も使用していないと話していた。12月下旬から2月中旬までは治療ができなかったが、2月中旬の時点で、下痢をするのは週に1回くらいで腹痛の強さも以前より軽減しているとのことだった。また、この10年程で一番いい状態だとも話していた。
 岩らは、腸蠕動に及ぼす鍼灸刺激の効果を検討するため、刺激部位を遠隔部(合谷・足三里)、腹部(中脘・天枢・関元)、これらの併用群に分け、腸音を測定し、検討した。その結果、灸刺激では腹部刺激、併用刺激において刺激後に腸音減少が持続したと報告している。このことから、本症例では中脘、天枢、関元、足三里などへの施灸により腸管運動が改善し、その結果として便通異常も改善したと考えられる。しかし、この一症例のみでは十分とは言えない。今後は、同様の症状を訴える患者の治療をできる限り多く行い、治療効果を検証したい。


Ⅵ おわりに
 患者は、灸が様々な症状に効果があることは知っていたが、治療を受ける機会がなかった。今回灸治療を受け体調が改善したことで「できるだけ時間をつくって自宅でも灸をしたいと思う。」と話してくれた。今後もセルフケアの手段として、より多くの患者に灸の良さを知ってもらえるよう努力したい。


《引用・参考文献》
1)編者 「きょうの健康」番組制作班、主婦と生活社ライフ・プラス編集部:『生活シリーズ NHKきょうの健康 「便」と「尿」の悩みをスッキリ解決する本』、主婦と生活社、2018
2)大幸薬品ホームページ http://www.seirogan.co.jp/medical/stress.html
3)MSDマニュアル プロフェッショナル版 https://www.msdmanuals.com/ja-jp/プロフェッショナル
4)兵頭明監訳/天津中医学院・学校法人後藤学園編、『針灸学 臨床編』、東洋学術出版社、1993
5)岩昌宏ら:ヒト腸蠕動に及ぼす鍼灸刺激の効果(第2報)―刺激部位の検討―明治鍼灸医学 1991;8:35-41.


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